大学の2極分化

7月31日付の日本経済新聞の記事ですが、大学がますます2極分化しつつあるようです。都市圏と地方、大規模大学と小規模大学との間で学生定員の充足率について、都市圏の大規模大学では十分に充足しており、ますます競争が激しくなっています。小規模大学では定員割れでAO入試もAll OKの入学になっているようで、大学卒だけでは学力がまったく保証されない状況になってきました。

対面授業、少人数教育、受益者負担という古いタイプのエリート教育をそのまま拡大してきた高等教育モデルのつけが回ってきたようです。このような教育形態は、人件費、施設設備費が高額になりますが、そのために授業料を値上げせざるを得ない状況になります。これがわが国の産官学の連携による高等教育政策だったのです。

もう一つの高等教育のモデルは、授業料の無償化、協調自律学習、学習者調整学習、柔軟学習などとよばれている学習者主体による在宅在職学習の充実により、学生による学習成果の保証を目指した教育制度です。学生が大学運営にも参加しての経営の合理化とICT活用によるコストダウンを目指した教育であるといえます。このような形態については民学産官による合意が必要であるので、むやみと授業料を値上げすることはできないでしょう。

教育サービスと学習サービス

今年の春学期の中等教科教育法情報は、指導者も受講者もなかなか辛いものでした。主体的学習あるいは自主的学習ということはよく主張されますが、現在の学生は、学校や塾で丁寧に教えられることに慣れているので、教えられず自分たちで学ぶということになかなか切り替えられないのでしょう。とくに今年は教科書を手分けして調べて、その用語集を作成し、自分たちで調べてお互いにテストを作成して理解を確かめるというところまでは進みましたが、その後にどのように展開するかについて皆目見当がつかないという状況です。過去に取り組んだ課題について紹介はしましたが、それでもまだピンとこない状況です。

教科情報を教える教科にするのか学ぶ教科にするのかは重要な問題です。7月24日と25日に千葉の幕張富士通ラボラトリーで国際会議が開催されますが、そのときにアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアの提供する話題などが「学習サービス」となっているのにたいして、わが国からの提案は原案の段階では「教育サービス」という考え方でした.諸外国が学ぶ人にさまざまなサービスを提供しようとしているのに対して,わが国は教えるサービスをしようというのでしょうか

貧しい人々の学習権

 最近のわが国の教育政策でも、主体的に学ぶことの重要性が指摘されるようになってきましたが、世間の風潮は少人数教育や個別指導による親切丁寧な教育が評価されています。塾や私学の宣伝文句となり、授業料はますます高騰しています。情報通信技術ICTの普及によって多くの国が国連決議にもあるように高等教育まで無償化して生涯学習社会へと移行したいと努力しているのとはまったく逆の教育政策です。

 最近の教育でのICT活用の国際会議では、ケータイはもちろんのこと、ブログやアバターまでも教育利用しようという気運があるのも、最貧困層の家庭で主体的な学習が行われるのは、子ども、若者、学力の十分でない人たちになじみのあるメディアが有効であると考えられているからです。ICT先住民である子どもたちが、後からやってきたICT移住民の大人たち、なかでも教師にとやかくいわれて支配されることにいつもで耐えることができるのでしょうか。

テレビが普及し始めた時、評論家の大宅壮一氏の「一億総白痴化」という言葉が流行しましたが、その後は教育利用の研究が進んでテレビ教育が普及し、教室に1台は必ず整備されるようになりました。正高信男氏の「ケータイを持ったサル」という表現も、将来を見通す眼力がなかったことを悟る日もそれほど遠い将来のことではないでしょう。ケータイを活用した教育が日夜研究されているからです。

すでに紹介したスウェーデンのNet Universityやイギリスの公開大学が開始したOpen Learnなどにケータイからアクセスして単位を取得したり、専門職能を身につけることが可能になるのかも知れません。世界規模でのビデオ会議システムが安価に普及するようになりましたし、翻訳技術が進歩して即時翻訳が実現すればわが国の貧しい階層の子どもたちも学習権を享受することができるようになるでしょう。それが国連やユネスコOECDが目指している21世紀の教育だからです。このような政策はもともとアジアやアフリカの貧しい国々の教育をレベルアップするために新しい教育技術を開発することが目指されているのですが、わが国では貧者のための高等教育レベルの学習の機会は乏しいですから、貧しい人々は海外の人たちと一緒に学習するようにすればよいのかも知れません。学ぶことが貧困から抜け出すもっとも有力な道だからです。

秋葉原の通り魔事件とm-Learning

 秋葉原歩行者天国で信じられないような惨事が起こりました。容疑者は25歳であり、ケータイに刻々と自分の行動を記録していたとのことです。この容疑者にとってケータイは日常的に使用されていて、まったく手放せないものだつのでしょう。

以前にコンピュータ教育開発センター(CEC)主催のフォーラムが京都であったときに、「ニートの人々とケータイ文化」というテーマで部会をもち、そのときに司会を努めましたが、そのときの趣旨説明がつぎのURLに掲載されています。

http://www.cec.or.jp/e2e/symp/kyotopdf/B051.pdf

日付は2005年10月28日となっているのでもう3年近くも以前のことですが、わが国のケータイに対する教育関係者の反応は相変わらず否定的です。しかし、ヨーロッパではm-Learningとして巨額の資金が投入され、「失業者、ホームレス、不本意な就職をしている若者たち」のために熱心に研究がすすめられているのです。

最近ではインターネットによるバーチャル大学が本格化しています。とくにスウェーデンのNetUniversityは25国立大学が協力して開発しているもので、授業料無料でアクセスできます。英語版はつぎのURLです。

http://english.netuniversity.se/

ケータイも急速に進歩しているので本格的な学習も可能になってきていますから、将来的には高等職能教育で重要な利器となるでしょう。

失業したり職場になじめなかったら、ケータイを使ってインターネットで英語をしっかり勉強し、さらに無料の大学の授業まで受講して外国の大学の単位を取得するという夢をもつようにしてはどうでしょうか。イギリスの公開大学のOpneLearnもスウェーデンのNetUniversityも立派な国立大学ですから国際社会に通用するので、そうすれば日本脱出の夢もかなえられるでしょう。

若者たちよ、ケータイで世界に飛躍しよう!

遠隔学習と多人数授業

遠隔学習を実施するにあたって解決しなければならない問題は多人数教育のときの学習と管理の方法です。これまでに経験してきたのは、岐阜大学佛教大学滋賀大学の大学院レベルでの遠隔学習でした。受講者人数は3−12名という規模ですが、実施しての印象はこの程度の人数だとどうしても教師主導型になってしまうということです。学習者が自分たちで学習を管理するという方法が持ち込めず、かえって教師が説明しリードしてしまう形式になりがちです。

多人数での実施を試みたいのですが、現在の大学院レベルの授業ではそのような他人数での授業が少ないという制約があります。これが100人とか200人とかになるとそれを覚悟して教材開発や課題の設定ができるのだろうと思います。そのときにはブログを上手に利用することによって個人が意見を出しやすいようなアレンジをすればよいのでしょうが、実践してみる機会がないのが残念です。大学院レベルでも多人数の学習をマネージメントすることは可能であることは世界の教育では常識なのですが、残念ながらそのような実験ができません。このことがわが国の大学院レベルでの遠隔学習の発展を阻害しているのです。わが国の教育の現状は、世界の教育の趨勢からますます遅れていっているのです。

教えることを追及してきた日本

わが国は、明治の文明開化以来、学校や大学が知識の伝達と習得にとって最も有利な教育機関であると考えらてきました。ところがこの前提が崩れつつあります。それはコンピュータとインターネットの出現です。何かを知りたいときには簡単に検索してそれを見つけ出せはよくなったのです。

大学においても「教える―教えられる」という関係が守られているのですが、そのために日本の授業料は世界で一番高いものになりつつあります。このあたりのことについてはフォルダの中の「学習のための資料」にある「SCS教育工学の配布資料」を見て下さい。

どのようにすればわれわれはもっと学ぶことが楽しくするのでしょうか。
「教える高価と学ぶ効果」という視点からすればどのようにすればお互いに楽しく学べるのでしょうか。

ストレスとその解消法

先日、同じ研究所で仕事をしている望月紫帆さんからストレスについてのインタビューを受けました。

「どのようなことにストレスを感じますか」ということです。家族のことなども思い浮かびましたが、やはり「仕事で忙しすぎるとき、解決が馬鹿げている難問に当面したとき」と答えました。

「そのときの解消法は何ですか」ということですが、私の場合はきわめて単純で、「ヨットで遊ぶこと」と答えました。もうこのパターンは50年以上も続いていて、働き盛りのときは隔週に1度はヨットに乗ってレースをしないと疲れが溜まりました。最近では月1回のレースがストレス発散の機会です。先週の日曜日も淡路島のマリーナでのレースに出場しましたが、あまり風はなく、フィニッシュしてから強風が吹いてきて残念でした。順位を競うには艇が鈍重ですので、もっぱら参加することに意義を見出していることと、いつも近くを走っている同じようなハンディーの人たちと競っているだけです。

先のGWは淡路島の洲本を出港して、明石海峡大橋をくぐり家島、小豆島と巡航して、さらに直島へと少し遠出をしました。直島の地中美術館は異空間の体験でした。