貧しい人々の学習権

 最近のわが国の教育政策でも、主体的に学ぶことの重要性が指摘されるようになってきましたが、世間の風潮は少人数教育や個別指導による親切丁寧な教育が評価されています。塾や私学の宣伝文句となり、授業料はますます高騰しています。情報通信技術ICTの普及によって多くの国が国連決議にもあるように高等教育まで無償化して生涯学習社会へと移行したいと努力しているのとはまったく逆の教育政策です。

 最近の教育でのICT活用の国際会議では、ケータイはもちろんのこと、ブログやアバターまでも教育利用しようという気運があるのも、最貧困層の家庭で主体的な学習が行われるのは、子ども、若者、学力の十分でない人たちになじみのあるメディアが有効であると考えられているからです。ICT先住民である子どもたちが、後からやってきたICT移住民の大人たち、なかでも教師にとやかくいわれて支配されることにいつもで耐えることができるのでしょうか。

テレビが普及し始めた時、評論家の大宅壮一氏の「一億総白痴化」という言葉が流行しましたが、その後は教育利用の研究が進んでテレビ教育が普及し、教室に1台は必ず整備されるようになりました。正高信男氏の「ケータイを持ったサル」という表現も、将来を見通す眼力がなかったことを悟る日もそれほど遠い将来のことではないでしょう。ケータイを活用した教育が日夜研究されているからです。

すでに紹介したスウェーデンのNet Universityやイギリスの公開大学が開始したOpen Learnなどにケータイからアクセスして単位を取得したり、専門職能を身につけることが可能になるのかも知れません。世界規模でのビデオ会議システムが安価に普及するようになりましたし、翻訳技術が進歩して即時翻訳が実現すればわが国の貧しい階層の子どもたちも学習権を享受することができるようになるでしょう。それが国連やユネスコOECDが目指している21世紀の教育だからです。このような政策はもともとアジアやアフリカの貧しい国々の教育をレベルアップするために新しい教育技術を開発することが目指されているのですが、わが国では貧者のための高等教育レベルの学習の機会は乏しいですから、貧しい人々は海外の人たちと一緒に学習するようにすればよいのかも知れません。学ぶことが貧困から抜け出すもっとも有力な道だからです。