生きる−働く−学ぶ

教育を考えるときに、愛国心、伝統文化の継承、道徳規範の浸透、科学技術の振興、産業の発展など、さまざまな理由が教育する側の論理として述べられます。このような主張はそれぞれがもっともですし、教育学者も教育行政関係者も教育愛あるいは教育的信念の重要性が強調されます。

しかし庶民にとっては、「生きる−働くー学ぶ」というループから見た時の教育の機能が重要でしょう。この「生きる−働く−学ぶ」というループは、生きるために働き、働くために学ぶというループなのですが、このループにわが国の学校や大学などの教育装置が機能しなくなってきました。財務省は国立大学の授業料も私立大学並みに値上げすれば2700億円の経費が節約できると主張していますが、これなどは1976年の国連の決議にたいする日本政府の批准と回答にみる留保はどういうことだったのでしょうかね。

「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」は1966年の第21回国連総会において採択され、1976年に発効し、日本は1979年に批准しました。
その第13条2項にはつぎのようになっています。

(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

これに対して日本政府はつぎのように回答しました。

第13条2(b)及び(c)への留保
(1) 我が国においては、義務教育終了後の後期中等教育及び高等教育に係る経費について、非進学者との負担の公平の見地から、当該教育を受ける学生等に対して適正な負担を求めるという方針をとっている。
 また、高等教育(大学)において私立学校の占める割合の大きいこともあり、高等教育の無償化の方針を採ることは、困難である。
 なお、後期中等教育及び高等教育に係る機会均等の実現については、経済的な理由により修学困難な者に対する奨学金制度、授業料減免措置等の充実を通じて推進している。

(2) したがって、我が国は、社会権規約第13条2(b)及び(c)の規定の適用にあたり、これらの規定にいう「特に、無償教育の漸進的な導入により」に拘束されない権利を留保している。

このように無償にすることについて私学の経営上の理由を挙げたのですが、今回は国立大学の授業料を私学に近づけることが検討されています。

このような政策では我が国の大学全体の今後が怪しくなっていくのでしょう。高等教育の無償化については、最近の情報通信技術ICTの発達で、まったく新しいコンセプトの高等教育が生まれつつあります。21世紀は高等教育の改革の世紀とも呼ばれていますが、世界の教育研究の主流は、ICTの進歩によって国連の決議にあるように初等教育から高等教育までの無償化を実現できないかどうかで競われているのです。みなさんもがんばって新しいコンセプトの高等教育を提案してみませんか。それは科学技術の振興とか真理の探究のための学問を究める高等教育ではなく、「生きる−働く−学ぶ」ことを生涯にわたって保障するような高等教育です。

PISA学力と失業率と移民労働者

OECDが実施する学力調査はPISA2003ならびにPISA2006としてわが国でも大いに話題になりました。フィンランドが1位を占めているのに対して、わが国は数学リテラシー科学リテラシー、読解力で順位を下げてきているので学校での基礎基本の指導の徹底が叫ばれています。しかし、OECDがこの調査結果をどのように利用しようとしているかについてはあまり紹介されません。
つぎのグラフはわが国とフィンランドアメリカの到達度別の分布を示したものです。

この分布の状況からうかがえることは数学的リテラシーではレベル6ではわが国が一番高いのですが、レベル1以下あるいはレベル1の生徒がファンランドは少ないのです。フィンランド教育省はこの成績が発表された直後に数学的リテラシーはレベル2以上をもって教育成果とみなすという政策でしたからその点で成功していたといえます。また読解力についてはレベル3以上を教育成果とみなしていたので、その点でもわが国よりも成功しています。アメリカは学力格差が大きく、しかも低位の子どもが多いので全体の順位もひくいのですが、わが国の読解力の分布がアメリカに似てきたことは気になります。
数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力といった学力は国全体の知的レベルの維持にとっても重要ですが、フィンランドはドイツ、フランスなどについで失業率が高い国です。しかも外国からの移民労働者を多く抱えているのですが、そのような移民の失業率と原住民の失業率の差がもっとも高いのがフィンランドです。したがってフィンランドはそのような失業を少なくするためにも学力の低い人を少なくして、生涯にわたって学習できるようにすることが福祉政策として極めて重要なのです。わが国では失業率が高くなると産業政策が重視されますが、失業保険など手厚い保護を国是としている国にとっては失業者を出さないように低所得者層の人々が自立できるように基礎学力を重視しているのです。


なお、ヨーロッパで失業率が高い原因の一つに国際難民を多く引き受けている状況があります。フランスもドイツもスウェーデンも多くのイラク難民を引き受けているのですが、この人々の教育問題は深刻です。わが国にはこのような移民や難民についての学力調査の結果は公表されているのでしょうか。イラク難民の受け入れについてはアメリカも日本もきわめて少ないです。

パリの学校とICT活用

1983年にOECD中等教育におけるコンピュータの活用状況について参加24カ国の調査を実施し、その翌年にパリの本部で国際会議を開催しましした。日本からは文部省の社会教育局(当時)から1名と大学から2名のものが参加しました。そのときの調査結果から、導入に関して総合的なアプローチ、カリキュラムからのアプローチ、職業教育からのアプローチ、情報機器からのアプローチと分類され、日本は職業教育における活用で筆頭に挙げられました。

その後、ヨーロッパの状況を調べるために毎年のようにイギリスやフランスを訪問していました。とくにパリでは一人で出かけることが多かったのですが、さまざまな人に会ってコンピャータ活用の状況を知ることができました。その最初の人は小学校の教師で、コンピュータを使用している状況を紹介してくれることになったのですが、夕方に自宅に来て夕食をすませてから見に行こうということになりました。不審に思っていたのですが、夕食はフランスの典型的な田舎料理である豆をぐつぐつ煮たもので、いわゆる農民のあいだで広く食べられているものだということでした。私には少し重い感じの食事でしたが、フランスは農業大国ですからなるほどと納得しました。

食事の後、近くの小学校に出掛けて地下室に案内されたのですが、裸電球の部屋の壁際に数台のコンピュータが並べてあり、そこに十人あまりの子供たちが集まって操作していました。その教師によると近くの外国移民の子供たちだということでした。

その後も一人で出かけるときはソルボンヌの近くのウルム街にある国立教育研究所(INRP)の海外関係担当の方に紹介されてさまざまな学校を訪問することができました。あるコレージュ(中学校に相当)では音楽に活用しているということでしたので、その状況を参観することができました。輪唱の各パートの入り方を、パソコンでリズムを流しながら教師が指導していたのですが、子どもたちは隣の友達と話をしていたり、よそ見をしていたりとなかなか指導についてこないので、ついに教師も声を荒げて注意する状況でした。授業の後で恥ずかしい授業を見せましたと教師は弁解していました。その学校の校長室の入口にはさまざまな注意書きのしてある紙が貼ってあり、そのなかに「学校に凶器を持ち込むな」というものがありました。このコレージュはつい最近近くの女子コレージュと併合されたばかりで貧しい家庭の子どもが多いということでした。
 他に紹介されたリセ(高校に相当)では校長先生が書類をもってきて数字を示しながら、この地域はユダヤ系の人々が多く、科目によって成績が思わしくないので、その得点を上げるために派遣されたとのことでした。その校長先生はコンピュータからのさまざまなプリント用紙を示しながらどのように学校経営をしているかを説明して下さいました。

パリでは他の学校もいくつか見学しているのですが、設備がよく整ったところよりも指導困難校をよく紹介してくれたのが印象的でした。とくに頼んでそのような学校を紹介してもらっていたわけではありませんが、日本でコンピュータ活用の学校を見学するときは、よくコンピュータ室が整備されている学校が多かった時期に、特にフランスでは指導困難校や校長室のコンピュータから印刷される資料を見せて頂いたことが印象的です。パリはそのような貧困層の子どもたちの教育に力を入れないと授業が成立しないし、将来の社会不安になる懸念があるからです。

20世紀後半に取り組まれていた中等教育の教育改革も進展して、2005年にはリセの最終段階で受験するバッカロレアの受験生も増えて70.0パーセントの生徒が受験し、その80.1パーセントが合格しています。すなわち56パーセントあまりの若者が高等教育にアクセスすることが認められています。このバッカロレアは一般バッカロレアが35.1パーセント、技術バッカロレアが19.9パーセント、職業バッカロレアが15.0パーセントですが、この職業バッカロレアのところに貧困家庭からの進学が期待されているのです。ちなみに1965年当時で高等教育への進学は上級幹部の家庭で45.0パーセント、中級幹部の家庭で25.0パーセント、工業労働者の家庭で1.1パーセント、農業労働者の家庭で0.7パーセントでしたから、この40年間で教育の民主化はずいぶんと進展したものです。

ちなみにわが国の2006年度の高校からの大学などへの進学率は49.3パーセントですが、そのうちで普通高校から42.4パーセントですから職業高校他からは6.9パーセントということになります。

教育の価値観と情報通信技術の活用

情報通信技術の活用が,教育工学の分野でもっとも活発に研究されたために教育にとって重要な主観の問題,とくに教育的価値の問題が研究者にあまり意識されないままで進んでいるために、わが国の教育工学の限界になっています.「工学はつまるところ設計の学問である」という考え方がありますが,このとき設計はコンセプトあるいは設計思想というものがもっとも重視されます.ところがわが国の教育工学では,「なんでもあり」ということで設計思想が明確でない,あるいは思想が意識されずにその時々の時流があたかも正当であるかのように考えられていますが,それは教育の視点から見ると正統ではありません.教育を国家意識の高揚,科学技術の振興,産業振興のための人材育成と考えるか,教育を通じて進展する格差を克服する装置であると考えるかによってその方向は大きく変わってきます.

残念ながら現在のわが国の教育学は技術文明に導びかれる教育工学を批判はしますが,それを正しく導く哲学を提供できない状況です。情報通信技術が進歩したお陰で海外の人々と安価に即座にコミュニケーションをとることができるようになりました.電話代も競争の結果,安くなりつつあります.一方,学校や大学の授業料は石油や食料品と同じように高騰しています.石油や食料品は限りある資源を多くの人が競って買うために高騰しているのですが,教育もまた限りある資源なのでしょうか.それは有名大学,有名教授という限定された教育資源を供給資源とみなしたときにはそれを求めて競争すれば授業料は高騰するでしょう.このときの前提は「教え−教えられる」関係によって成立している教育だからこのような現象が起こっているのです.

それにたいして「自ら学ぶ」という枠組みをとったとき,情報通信技術の進歩は多くの人々に学ぶための資源を大量に迅速に供給することができます.その目指すところは生涯学習社会です.このような考え方はすでに1960-70年代に福祉国家が行き詰った時代に生まれてきました.その結果,現在の福祉国家を目指す国々では,情報通信技術を活用して学習のための資源を無償で提供することに努力しているのです.ヨーロッパでは高等教育まで無償の国が多いと紹介すると,「税金が高いからでしょう」という答えが返ってくることが多いです,しかしそうではありません.南ヨーロッパでも無償の国は多いのですが,このような事態についての説明にたいしても「将来は授業料を課さざるを得なくなるし,授業料は高騰するだろう」と反論されますが,果たしてそのようになるかどうかです.いま高等教育において情報通信技術を活用することに熱心になっているのは,高等教育もできれば無償で,それが無理でもできるだけ安価に提供できることを目指しているのです.そのような生涯学習のためのインフラが整備されつつあるのです.アメリカ社会にみられるように格差社会の背後に授業料の高額な有名総合大学が生み出している富裕階級が存在しているという実態があることを見逃してはならないでしょう.わが国もそのような方向に進みつつあります.それは教育に競争原理を持ち込んでいる結果です.むしろ共有できる説得力のあるビジョンをもって,教育格差の克服に立ち向かって協働,協調することが大切でしょう。

授業研究での客観と主観

授業研究にはいろいろなスタイルがありますが、私の場合には自分の授業を対象に研究してきました。自分の授業を他の人の授業と比較することはほとんどありません。それは自分の授業は他の人の授業と質的に異なっているからです。「質の異なるものを比較するのは幼児のすることである」といったのは確かニーチェだったと思いますが、これは不確かです。
「リンゴとスパゲッティーはどちらが美味しいか」というような質問と同じです。「リンゴとバナナは果物としてどちらが美味しいか」ということは比べることができるかも知れません。しかしそれも「好みによる」ということになるでしょう。確かに「リンゴ1個とバナナ1本ではどちらがカロリーが高いか」という問いなら答えることはできます。しかし、それでも「どちらを食べますか」と問えばカロリーの高い方を選ぶ人もおれば、それを避ける人もいるでしょう。

いずれにしても自分の授業に興味があるのですが、比較するのは昨年の授業、3年前の授業、あるいは佛教大学での授業と滋賀大学での非常勤講師としての授業といったものです。したがってこの種の研究は現在のとくに教育工学では評価できないのです。それはわたくしの研究方法が間違っているのではなく、現在の教育工学の研究方法が未熟だからです。現在の教育工学の研究方法論は設計者や実施者の主観を対象とした研究に不向きなのです。私の研究方法をサポートしてくれるのはフッサールの地平の考え方や、ボラニーの「個人的知識」で扱っている詳記不能の問題です。

私が実現している授業は多人数(最多で276名)であっても学生はチームになって活発に学習します。このような授業をきちんとした方法論をもって設計できる研究者が日本の教育工学会にどれほどいるのか分かりません。私が論文を投稿しても返ってくる査読結果はほとんどがピント外れですので、最近はあまり期待しなくなりました。もっぱらヨーロッパで発表するという結果になっています。

授業研究では客観と主観はつねに付いて回る問題ですが、主観をどのように表現できのかまだはっきりしていません。現時点での私の仮説は

仮説:授業過程の設計は、メタファー、イメージ、モデル、命題の集合体として記述することができる。

というものですが、これが最近の海外での発表の主旨です。これなら主観をある程度表現することが可能です。

このように自分の主観を訂正する方法を探っているのですが、いま授業研究ではやりの反省とか省察といった2文字でことが片付くようなものではありません。何を訂正すればよいのかを明示しないと改善は望めませんから。現在広く採用されているPlan-Do-SeeやPlan-Do-Check-Actionといった形式的な方法論の限界はここにあります。

今年の授業

今年の授業はTeamGearとこのブログを組み合わせての「学びのコミュニティー」が実現することになったので大変楽しみです。授業や教育について語る時、建前主義が先立って、自分の授業のまずさについて語ることがなかなか少ないのですが、このブログという方式は本音を語るのにもっとも適したツールなのでしょう。日記を書きかけてもあまり長続きをしたことがないのでどこまで続くか疑問ですが。

それでも教育について、あるいは自分の授業について語ることができるのは楽しいものです。私が教育工学の研究、その初期にはプログラム学習について勉強を始めたのは1967年ごろからですから、もう40年も経過しました。1966-67年にフランス政府の技術留学生としてパリの南の郊外にある技術教育高等師範学校(L'Ecole Normal Superieur d'Enseignement Technique)に滞在しているときに、国立教育研究所(Institut National pour Recherche Pedagogique)で出会ったサイバネティクス教育学(Enseignement Cybernetique)が自分の研究の方向を決定しました。当時はこの考え方に熱中したものです。これはいわば客観主義の立場からの教育研究の最右翼だったといえるでしょう。
一方、その当時興味をもっていた現象学の思想でフッサールの「経験と判断」を一気に読んだことを鮮明に覚えています。それ以来、教育における客観と主観との間を漂ってきたのが私の研究歴といえます。最近になって、この客観と主観の軸の上で、解釈学を位置付けている組織シンボリズムの考え方に共鳴していますが、日本教育工学雑誌(現在の日本教育工学会論文誌の前身)の第1巻第1号の巻頭論文になった「記号による教授学習過程の設計方法と現職教員の訓練」(1976)を懐かしく思い出します。また、これをもとにして書いた'Two Symbol Systems for Designing Instructional Process'のテーマは、最近ヨーロッパで発表しているものとあまり大差ありません。その当時、手間ひまかけて手作業でやっていたことを最近ではコンピュータを使ってやっているに過ぎません。このように研究のテーマが変わらないのは、それが妥当な問題を捉えているとみるのか、あるいは蛸ツボ的研究として片付けられるものなのかは分かりません。しかし、最近の急速なICTの進歩に対しても研究テーマを殆んど変える必要を感じないのは有難いことです。

はじめてのブログ

若い人たちの間ではブログがはやっているようですが、日記をつける習慣のない私にはいきなり公開する日記を書くことは勇気のいることです。しかしエイヤ!と書き始めることにしました。
今年も新しいスタイルの授業への挑戦です。

学部の授業「中等教科教育法情報」の授業では、「教える情報科教育」から「学ぶ情報科教育」に転換するために、プロジェクト方式をとりたいのですが、より充実したプロジェクトが企画、実施できるためには情報に関する基本的概念がないと、はいずりまわる経験主義に陥るので、まず基本的概念を協調自律して学ぶ環境を実現するためにブログを授業の一部に導入しました。

大学院の授業「生涯教育方法学演習」の時間では、わが国の大学の授業料の高騰が止まらない状況からスタートして、これを抑制しさらには低減させるための教育方法を開発することを試みたいと考えています。この授業では「学ぶ教育」を実現するための授業をどのように設計するかが主要なテーマです。

授業の経過を逐次報告しながら新しい教育技術や方法を考えてみます。