授業研究での客観と主観

授業研究にはいろいろなスタイルがありますが、私の場合には自分の授業を対象に研究してきました。自分の授業を他の人の授業と比較することはほとんどありません。それは自分の授業は他の人の授業と質的に異なっているからです。「質の異なるものを比較するのは幼児のすることである」といったのは確かニーチェだったと思いますが、これは不確かです。
「リンゴとスパゲッティーはどちらが美味しいか」というような質問と同じです。「リンゴとバナナは果物としてどちらが美味しいか」ということは比べることができるかも知れません。しかしそれも「好みによる」ということになるでしょう。確かに「リンゴ1個とバナナ1本ではどちらがカロリーが高いか」という問いなら答えることはできます。しかし、それでも「どちらを食べますか」と問えばカロリーの高い方を選ぶ人もおれば、それを避ける人もいるでしょう。

いずれにしても自分の授業に興味があるのですが、比較するのは昨年の授業、3年前の授業、あるいは佛教大学での授業と滋賀大学での非常勤講師としての授業といったものです。したがってこの種の研究は現在のとくに教育工学では評価できないのです。それはわたくしの研究方法が間違っているのではなく、現在の教育工学の研究方法が未熟だからです。現在の教育工学の研究方法論は設計者や実施者の主観を対象とした研究に不向きなのです。私の研究方法をサポートしてくれるのはフッサールの地平の考え方や、ボラニーの「個人的知識」で扱っている詳記不能の問題です。

私が実現している授業は多人数(最多で276名)であっても学生はチームになって活発に学習します。このような授業をきちんとした方法論をもって設計できる研究者が日本の教育工学会にどれほどいるのか分かりません。私が論文を投稿しても返ってくる査読結果はほとんどがピント外れですので、最近はあまり期待しなくなりました。もっぱらヨーロッパで発表するという結果になっています。

授業研究では客観と主観はつねに付いて回る問題ですが、主観をどのように表現できのかまだはっきりしていません。現時点での私の仮説は

仮説:授業過程の設計は、メタファー、イメージ、モデル、命題の集合体として記述することができる。

というものですが、これが最近の海外での発表の主旨です。これなら主観をある程度表現することが可能です。

このように自分の主観を訂正する方法を探っているのですが、いま授業研究ではやりの反省とか省察といった2文字でことが片付くようなものではありません。何を訂正すればよいのかを明示しないと改善は望めませんから。現在広く採用されているPlan-Do-SeeやPlan-Do-Check-Actionといった形式的な方法論の限界はここにあります。