教育の価値観と情報通信技術の活用

情報通信技術の活用が,教育工学の分野でもっとも活発に研究されたために教育にとって重要な主観の問題,とくに教育的価値の問題が研究者にあまり意識されないままで進んでいるために、わが国の教育工学の限界になっています.「工学はつまるところ設計の学問である」という考え方がありますが,このとき設計はコンセプトあるいは設計思想というものがもっとも重視されます.ところがわが国の教育工学では,「なんでもあり」ということで設計思想が明確でない,あるいは思想が意識されずにその時々の時流があたかも正当であるかのように考えられていますが,それは教育の視点から見ると正統ではありません.教育を国家意識の高揚,科学技術の振興,産業振興のための人材育成と考えるか,教育を通じて進展する格差を克服する装置であると考えるかによってその方向は大きく変わってきます.

残念ながら現在のわが国の教育学は技術文明に導びかれる教育工学を批判はしますが,それを正しく導く哲学を提供できない状況です。情報通信技術が進歩したお陰で海外の人々と安価に即座にコミュニケーションをとることができるようになりました.電話代も競争の結果,安くなりつつあります.一方,学校や大学の授業料は石油や食料品と同じように高騰しています.石油や食料品は限りある資源を多くの人が競って買うために高騰しているのですが,教育もまた限りある資源なのでしょうか.それは有名大学,有名教授という限定された教育資源を供給資源とみなしたときにはそれを求めて競争すれば授業料は高騰するでしょう.このときの前提は「教え−教えられる」関係によって成立している教育だからこのような現象が起こっているのです.

それにたいして「自ら学ぶ」という枠組みをとったとき,情報通信技術の進歩は多くの人々に学ぶための資源を大量に迅速に供給することができます.その目指すところは生涯学習社会です.このような考え方はすでに1960-70年代に福祉国家が行き詰った時代に生まれてきました.その結果,現在の福祉国家を目指す国々では,情報通信技術を活用して学習のための資源を無償で提供することに努力しているのです.ヨーロッパでは高等教育まで無償の国が多いと紹介すると,「税金が高いからでしょう」という答えが返ってくることが多いです,しかしそうではありません.南ヨーロッパでも無償の国は多いのですが,このような事態についての説明にたいしても「将来は授業料を課さざるを得なくなるし,授業料は高騰するだろう」と反論されますが,果たしてそのようになるかどうかです.いま高等教育において情報通信技術を活用することに熱心になっているのは,高等教育もできれば無償で,それが無理でもできるだけ安価に提供できることを目指しているのです.そのような生涯学習のためのインフラが整備されつつあるのです.アメリカ社会にみられるように格差社会の背後に授業料の高額な有名総合大学が生み出している富裕階級が存在しているという実態があることを見逃してはならないでしょう.わが国もそのような方向に進みつつあります.それは教育に競争原理を持ち込んでいる結果です.むしろ共有できる説得力のあるビジョンをもって,教育格差の克服に立ち向かって協働,協調することが大切でしょう。