今年の授業

今年の授業はTeamGearとこのブログを組み合わせての「学びのコミュニティー」が実現することになったので大変楽しみです。授業や教育について語る時、建前主義が先立って、自分の授業のまずさについて語ることがなかなか少ないのですが、このブログという方式は本音を語るのにもっとも適したツールなのでしょう。日記を書きかけてもあまり長続きをしたことがないのでどこまで続くか疑問ですが。

それでも教育について、あるいは自分の授業について語ることができるのは楽しいものです。私が教育工学の研究、その初期にはプログラム学習について勉強を始めたのは1967年ごろからですから、もう40年も経過しました。1966-67年にフランス政府の技術留学生としてパリの南の郊外にある技術教育高等師範学校(L'Ecole Normal Superieur d'Enseignement Technique)に滞在しているときに、国立教育研究所(Institut National pour Recherche Pedagogique)で出会ったサイバネティクス教育学(Enseignement Cybernetique)が自分の研究の方向を決定しました。当時はこの考え方に熱中したものです。これはいわば客観主義の立場からの教育研究の最右翼だったといえるでしょう。
一方、その当時興味をもっていた現象学の思想でフッサールの「経験と判断」を一気に読んだことを鮮明に覚えています。それ以来、教育における客観と主観との間を漂ってきたのが私の研究歴といえます。最近になって、この客観と主観の軸の上で、解釈学を位置付けている組織シンボリズムの考え方に共鳴していますが、日本教育工学雑誌(現在の日本教育工学会論文誌の前身)の第1巻第1号の巻頭論文になった「記号による教授学習過程の設計方法と現職教員の訓練」(1976)を懐かしく思い出します。また、これをもとにして書いた'Two Symbol Systems for Designing Instructional Process'のテーマは、最近ヨーロッパで発表しているものとあまり大差ありません。その当時、手間ひまかけて手作業でやっていたことを最近ではコンピュータを使ってやっているに過ぎません。このように研究のテーマが変わらないのは、それが妥当な問題を捉えているとみるのか、あるいは蛸ツボ的研究として片付けられるものなのかは分かりません。しかし、最近の急速なICTの進歩に対しても研究テーマを殆んど変える必要を感じないのは有難いことです。